2009年02月20日

己を知ること

一つずつ人生の階段をのぼって行くと今までまったく気付かなかった事実に驚かされます。
私の人生はそれが全てでした。
私を支えてくれている人、そして食べるもの、着る服まで全部当たり前ではないのだと。

そう考えると何かとてつもない加護の上に自分が生かさせて貰っている感謝してもしきれないほどの有り難みに気づきました。

自然界やこの人間社会に関して、誰もこの役割をはたしていないわけではありません。
人間は社会を生きてゆく上で何らかの役割を担って生きて行かなければ自分が苦しくなります。
しかし、何もしない人が役割を放棄しているわけでは実はなくて、そのような人も役割を果していると私は思います。

社会に抵抗して生きるとは、自己に服従せず、他人にも服従せず、常に己との闘いです。

私は長い間それを続けてきました。

全ての既成の価値観を解体して分解してゆく過程はときに真実であり、宗教的です。
つまり我々のリアリティである現実と向き合う過程でのこの精神の葛藤はその人をより深い人間にします。
私は精神的な努力なしに真の美はないと信じています。

私とて人間の男なので綺麗な女性をみれば何か話しがしたいと思います。

しかし、それは私自身の精神が彼女に対して美を見い出しているのに他ならないのです。

人間には承知の通り美を見い出す力があります。

それは精神的なイデアに置いてです。

しかし、この美には秩序があり、また厳しさがあります。

秩序とは、正しさであり、一つが欠けていてはそれは完璧な美とは言えません。
もう一つの厳しさとは人生に置いてと自然界に置いての深淵です。
それには深い孤独と不幸と耐えられない程の忍耐と、この世の地獄と呼ばれる世界からけがれを受け、そのなかから咲いた蓮の華です。

秩序は正しい智慧であり、躰と魂を通しての道徳です。

これが一つに結び付いたとき、計り知れない感動を生みます。

自然発生的に生まれたアンデスの花がこのようであるように、人々は深い智慧を得るために深く生きていて、自分の魂を納得させる為に苦しんでいるのです。

人間の魂に置いて完璧ではないものなどありません。
アンデスの花は神の賜物です。

神は美すらも越えたはかりしれない畏怖すべき存在です。

そして全てはその計画通りに自分の中の宇宙も世の中も進んで行くのです。

自分の中のひかりこそ真実です。

私はカルトまがいの勧誘をしたくてこのようなことを言っているのではありません。

人間は神の胎内にもともと宿っていました。
マイスターエックハルト
自然界は意志と厳しさをもってそのことを我々に伝えています。

動物は人間よりも繊細で人間が忘れてしまった力を持っています。

ですから私自身全ての認識を誤っていました。

いや、今ですら愚かさを積み重ね、罪深い人間ですが、人の中のほんの一部でも仏のあるところ、自分の中のほんの一部の仏を頼りにただただすがりつき己の無力さをしる毎日です。

私はもともと人は無力であると悟ります。

この自然界に置いて。

しかし、厳しさを忘れてはならないのです。

私は毎日それをいい聞かせる必要があるでしょう。
posted by かなりあ at 22:09| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月07日

何を信じるべきか

世界恐慌
今の世の中何を信じるべきか、自分自身に問いかけて見た。
もっとも核心的な部分は私自身の中にあり、嘘と欺きと、罪深さと後ろめたさを抱え、悲劇的な序章の前に立ちすくむ自分の姿だ。
私を生んでくれ、育ててくれた人、ありとあらゆる支援をして下さった方々が居る。
私はその方々に頭が上がらない程感謝している。
しかし、やはり、悲劇の序章は刻一刻深遠を覗かせるように私の下に聳えている。
はかり知れぬ、罪と罰。悲劇の序章と連鎖に怯え。薄汚れた自分の姿に眩暈と嘔吐をしながら、煙草とコーヒーを飲む。
今こそ、美しい信仰と祈りに変えて、誰よりも謙虚で慎ましい母性の芽を出したい。
運命は自分自身で切り開くとお偉い人は言ったが、人は運命に翻弄されて生きて行く。
自分自身を自然なる宇宙の屍の上で奮い立たせて生きて行くことの虚しさに気づけば、計りしれない幸運と悲運の狭間で、畏敬と謙遜と慈悲を絶やさず苦しみ、自然の前で自ら肥やしになる生き方こそ、本来のより真実なる生き方であると気づく筈だ。

混沌、カオスは、資源を宇宙にまで発展させている。そして人を自然の前で抵抗させる。
白い闇、発展経済が生む、人間を家畜化させる存在は、より崇高なる魂を精神病的にさせ、日々の暮らしの中で、もっとも低き市民性を与えられる。
17世紀の美しい芸術の懐の深い優しさは、もっとも強靭でしなやかな生産性を持っていた。
白い闇に覆われた今日、我々は生きる活力を失いつつある。
鬱の時代である。
これからの時代、天下、出世よりも、故郷への帰還、より本質的な精神性への発展の時代を迎える。
しかし、世界の混沌、カオスはさらに追い討ちをかけるように、怒りや人々がもともと汚した膿の腫瘍は肥大して行き、さらなる悲劇や災難を生み出す。
何を信じるべきか問うなり。
神仏の不在の世でも、生きて行かなければならない覚悟と強さが求められているのである。
何も救う手立てがない。あけても覚めても希望が見えない精神の苦しみと争いの只中に居るとき。
我々は生きて行かなければならない。
失意と絶望のどん底に居るときでさえ、尚、謙遜と慈悲と敬意を失わず、生きる勇気と忍耐が常に求められる。
そしてときに死を強要されることだってあるであろう。
私はゲヘナの火を思い出す。
身体が腐って地獄の火に燃やされ失うよりも、霊的な精神と魂が失われることの方が悲劇であるということ。
これは私自身に言い聞かさなければならない。
そしてそれを私自身の刻印としたい。
posted by かなりあ at 21:13| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月15日

真面目で暗い人は見習うべき人?

私は本当の人としてのあり方とは、障害の有無に関わらず、経済の有無に関わらず、老若男女問わず、一人一人が他人は関係ないと思うのではなく、実に自分の身内に関わらず人により良い行いをしようと心がける人になろうとするあり方にあるのではないかと思います。

しかし、人生は自分の思っている通りに上手くいかないことは誰しもが御承知の事実で、人を傷つけず生きてゆくことは、出来ないと誰しもが思っています。

私自身も、自分の無知故、人を傷つけ、取り返しのつかない過ちを犯してしまったことが殆どです。

また、人の中には、誰にも、本当の信頼や愛をまともに得られなかった方達が居ます。
それゆえ、道を踏み外してしまったり、一人で悶々と苦しみの淵に塞いでいる彼らがいます。

彼らは私自身の鏡です。

道を踏み外してしまった者の中には億万長者の大富豪も居るかもしれません。平気でお金を騙し取っても何にも罪を感じない人もいます。また、麻薬や詐欺など、闇の組織に居います。

そして、一人で悶々と苦しみの淵に苦しんでいる方達の中には、ひきこもり、ニート、ワーキングプアの方、ホームレスの方々などが居ます。


道を踏み外した者は、イエスの言う汝の敵であり、「汝」を迫害する者に変わりはありません。しかし、そういう悪の道に進んでいる彼らこそ、私達が全身全霊の愛を持って、愛さないといけない存在なのではないでしょうか。私はこのような人たちも自分の鏡だと思うのです。

愛とは情けとは違います。

情けは、人に対して、善きことか、悪きことか、関係なく、物を恵んだり、甘やかしたりすることも赦されます。

しかし、愛は、その人の人生にとって何が必要で、何の為に苦しんでいるのか、その根本を見ようとする真の共感であり、その為には厳しさも必要とされます。
愛は智慧を示します。智慧は本当の善き生き方を示します。
しかし、道を踏み外したものは、愛が枯渇している上、そのことに気づきません。

本当の慈悲を持って、本当の愛を持ってイエスは汝の敵を愛せよと言われました。

これは困難なように思われます。

しかし、目の前の傲慢で愚かな相手に腹を立てて攻撃するのではなく、真摯に本当の愛を持って向き合うことは、実に重要なことです。

愛は、恐れを消し、本当の真理へと、私達を導きます。

だから、イエスは言いました。左の手が貴方をつまずかせるのでれば、切って捨ててしまいなさいと。

この意味は、自分の身体が奪われるよりも、魂である、勇気、知性、思いやりが奪われることの方がもっとも辛く、地獄であるからです。

それほどな強固な勇気を持つことが、我々には困難に思われるように誰しも感じます。

しかし、誰しもこれを持つことが出来ます。

なぜならば、誠の愛を持って敵に示すことこそ、幸いなることはないからです。

汝の敵は、貴方自身の鏡であり、汝の敵である鏡を、無視し、関係ないと思うことは、一見楽に思われますが、貴方の魂や愛に忠実ではないからです。

魂に忠実でない生き方は、自分自身を苦しめる生き方です。

実際に彼らを変えようといなくても良いのです。道を踏み外してしまった彼らに対し、祈り、迫害する者の為に祈ることによって、貴方自身が救われます。

そして、真に誠の智慧を持った強いものであれば、自らの厳しさを持って彼らに示すことが出来ます。
それを実行する人は、もっと偉い人です。


posted by かなりあ at 19:11| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

孤独の強さ

自分の心の声に忠実であろうとすることは、世の万物、万象の機微な動きに繊細で敏感であり続けるということなのです。しかし、科学が進歩することによって、いつしか、人間は自然を意のままに操れると思ってしまったのです。今の社会で自分の心の声に忠実であろうとすれば、当然傷つきます。心を病んでしまうでしょう。それ自体が当然の成り行きなのだということを私は知りました。お前は純粋無垢な心を信じているのか、そんなモノが尊いと思っているのかとおっしゃるかもしれません。しかし、我々が今、見つめなおさなければならないのが、まさにこの心なのです。それは肉体を意のままに操れる心の勤勉さではありません。禁欲とも違う。今の世で心を抑圧している存在は一体なんなのでしょう。私は個人的なモノにあると思います。我々を覆っている生活全体に関してもそれは言えます。アメリカの経済発展、グローバリゼイションは、自国の豊かな資源を他国に求めることによって、他国の発展途上国の人が、今まで自然環境の中で暮らしていた生活を一変され、工場で働かせ、物質中心文明を築きあげました。物が豊かで溢れているが、ご存知の通り、人間が自然環境から乖離されてしまった為、自然と一体なる心が枯渇し、心が病んだ時代を生み出しました。そればかりではなく、地球環境は刻一刻と蝕まれてゆき、世界各地で飢餓や病気などによって苦しむ人が増えています。最近の娯楽を見ても、ドラッグや麻薬など音楽小説、自殺を補助するようなエモロックなど、心が病んでいることに自覚意識のない人たちが、作ったような作品を目にすることがしばしばあります。私たちにはもともと、内的に美しいモノを創造する力を持っています。それゆえ、人はありとあらゆる自然たちを神々にし物語にしたり、心の豊かな創造性を生み出していったのです。
 ところが、現代は、心が置き去りにされているため、美しさといっても、内的なモノではなく、外面だけであり、美しさに残酷性を駆り立て、性的に邪な遊びの道具に祭りあげる始末です。
 我々はいかに自然の前で、雛鳥や小鳥の前で残酷であるか、知る必要があります。そして私は例え病んだ心であっても、本当に美しいものに触れ、感受性を育むこと、純粋な清らかな自然と向き合うことは決して間違ったことではないといいたいのです。
 自分志向の心を持つこと。誰かが良いと言ったこと、モノに振り回されることなく、自分の目と耳と肌で感じ取って、本当に優れているものを見出そうとすることは、そして、そのような生き方をしてゆこうとすることが、本当はもっとも大切なことなのです。
posted by かなりあ at 19:04| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

内なる自然に気づくとき

私達の多くは、物質的に恵まれていて、苦しみよりもむしろ楽を考えることの方がより効率的で、健康の為にも良いとされています。何故なら苦しみのことに四六時中考えるのを費やすことは、ネガティブなことであり、其処には何の生産性も生まないとされているからです。また我々の多くは、心を外に向けることで元気になろうとします。私たちの外側を覆っているモノ、人種、国籍、年齢、性別、職業、伝統、信条など、我々はそれに属しており、其処から余りにも離れられなくなってしまったからです。
 よく、ありのままの自分を受け入れろと言います。このありのままには二通りあると思うのです。現実に直面している自分の姿と、もう一つは、現実を離れた自分の姿です。この現実とは、自分達の外側を覆っているものであり、私たちがいかに伝統や、文化や言葉に心を奪われています。その現実を見ようとするとき、其処から離れた自分の姿が、現実から離れた自分の姿です。
 私たちは現実を離れた自分の姿を想像するのが怖い筈です。其処には、誰とも繋がりはないし、孤独で交わりすらなく、ひたすら寂しく、味気なく、真っ暗闇だからです。しかし、この何も私というモノを、覆うことも障ることもない世界は一体何なのでしょう。
 一般に無気力という言葉が流行っておりますが、無気力や鬱々とした気持ち、苛立ち、ソワソワする寂しさのようなモノを感じたことはありませんか。これこそ、何にも執われていない無自覚の自分自身だということに私は気づきました。しかし、社会や一般世間の認識というモノはそれをただ単に病的な存在として、一般的に目を背け、今までの社会は苦しみを乗り越え、大きな喜びを得るために今があるという位置づけで、今日まで、忙しなく急速に社会は発展を続けて行ったのだと思います。
 私は苦しみの果てに大きな喜びや勝利を得るベートーヴェン的な時代はもう終わったのではないかと思うのです。晩年のベートーヴェンは、苦悩を「克服して歓喜へ」ではなく、一人、絶望の淵に佇む、心の萎えた状態、鬱々とした気持ちを後期の弦楽四重奏曲で表現しています。それに、私たちは苦悩の果ての歓喜へ向かうには果てしなき、終わりなき遠い道のりのように感じていることでしょう。まして、シルダールタのような、絶対普遍の悟りなど開ける筈もない遠い道のりのように感じていると思うのです。
 私達は自然を見たとき美しいと感じます。また心から湧き上がる感動があります。これは、私達の心と身体が自然と密接と繋がってきて、私たちの祖先は大自然にあるからなのだと私は思います。自然を見たとき、美しいと思う感動は内なる心の自然の姿です。私は「心のふるさと」という言葉が大好きなのですが、内なる心の自然とは、私たちの心の故郷なのです。
 しかし、今の社会を覆っているものは、効率性、利便性、生産性、闘いに勝つこと地位や名誉や財産や健康や幸福です。私たちは、いつしかそれらの駆け引きの道具に、先達者の智慧を使うようになり、科学によって発展してきました。信仰や祈りについても同じことが言えます。何かの代償に祈ること、何かの駆け引きの道具に真理を使うこと、それらの側面によって、社会は発展してきた面もあります。しかし、それでは、社会は余りにも貧富の差が開きすぎ、また不条理すぎる世の中を作りあげてしまいました。
 本来の宗教のあり方とは、本来の真理のあり方、本来の祈りのあり方とは一体何でしょう。私達は外側のことに囚われすぎてしまい、余りにも其処からかけ離れてしまったのではないかと思うのです。今の世の中、自分自身に素直に正直に生きようと思えば思う程、苦しむ生きづらい世の中になってしまったと思うのです。人の不幸を笑うような無差別の殺人事件や放火事件など、また児童虐待で子供を餓死させてしまったり、子が親をナイフで刺したり、孫が、祖父や祖母を刺し殺したり、家族の一人が一家を皆殺しにしてしまったり自殺者が急増する世の中で、心に何かしらの不安や悩みのない人の方が精神的にどうかしているに違いないと私は思うのです。
 自分だけが幸福になれば、他の人をこけおどししても良い、自分の組織が、自分の国が旺盛すれさえすれば他の国はどうでも良いと思う人の精神や人の霊たちが、この世の中を滅茶苦茶にしていると、私の目から見ればそう思うのです。
 自分自身の心に素直に、国の直面している問題、世界全体が直面している問題を、時代のうねりを受け止め、生きていくことは非常に重要なことであると思うのです。
 そして、そのような世界を見たとき、心は鬱々とし、活気を亡くすのが自然だと思います。私たちはそれらに目をそらすことは結局出来ないのです。どこかで誰かが代償を払って苦しんでいる現状から目を背けることは結局出来ないのです。
 私たちが内なる自然、(本質的な自然、心の故郷)に立ち戻るとき、其処には心の痛みと苦しみがあります。しかし、そればかりではなく其処には言葉では言い表せない感動と愛に満ちた自然の宇宙があるのです。
 私事を書かせて頂きますが、私は18歳の頃、精神病になり、何度も鬱を経験し今現在も鬱を経験している統合失調症の患者です。鬱は私にとって怖いものです。心の萎えた状態、活気がなく悶々としていて、なんとなくけだるくて無気力で、不安や後ろ目たさや自己嫌悪など多々ありますが、私が鬱を経験してよかったなと思えるのは、自分が他人を傷つけてしまったこと、他人が自分を傷つけてしまったこと、束縛したこと、されたことを含め、一切が走馬灯のように蘇ってきて苦しみましたが、その苦しみには心の痛みの涙があったこと、それは決して楽な人生では培えなかった本当の愛、本当の優しさに包まれた感動を鬱によって、しかも何度も思いしらされたことか、私が自分の心の中の自然が大切だと思うのは、それによってしか、得られないもっとも大切な生命の輝きであり、愛であると言っても過言ではありません。
 心の内側を覗くと、其処には必ずといって良いほど、苦しみがあります。そして、その苦しみは実生活を生きにくく、障害を及ぼすほどの苦しみを与えるかもしれません。
 しかし、誰しも直面するであろう人生の苦しみとの付き合いかた、鬱の付き合いかたを、ゆっくりと、ときに溜息を付きながらも、気長に、優しくつきあってゆくことを考えてもいいのではないでしょうか。それは即ち、我々が今現在の自然界の怒り、悲しみを内的に感じ取る試みなのだと私は思うのです。そして、我々、人間社会が自然を支配しているのでは決してなく、自然界によって、また地球上の様々な神々、先祖の霊の賜物によって、私達は生かされている感謝の気持ちを抱くようになったのです。
 くどいようですが、これだけはいえます。人間が自然を支配しているのでは断じてなく、自然が人類を支配しているのだということ。そして、我々はその力に置いて本来無力であるのです。

posted by かなりあ at 19:03| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月28日

救済について

浦河べてるの家という精神しょうがい者の住む施設があります。
私は本やラジオで少し聴いただけ、大学勉強したこともありますが、患者が、精神科医の支持だけでなく、自分自身の意志で、自己分析し、自分で自分の病名を下すことをしているという話を聴きました。
精神科医の治療方法では病気は良くならないことが多いというのが、私自身の経験上からも、そして、多くの経験者のケースでも認知されています。
だからと言って薬の服用を怠るということだけは絶対に避けたほうがいいということは医療的な正しい認識です。貴方の判断で薬を変えたり、たいやくを行ったり絶対にしないでください。

べてるの家では精神科医と、患者が対等な関係を築いているのです。
普段、我々の精神医学に対する認知は、正しく理解されていないケースが多いのも事実です。

何事もポジティブに認識し、自己の内面を客観視しないで、服従して生きる道も人生に置いてあります。
そういった人は物事に慣れすぎてしまい、あらゆることが当たり前の存在になってしまうのです。

しかし、社会の局外に立って自己を認識する一種のアウトサイダー的な生き方の道もある。

自分を自分自身で正確に認知しようと努力すること、決して100%認識することは出来ないのが事実ですが、そういったところから、時代や歴史から学ぼうとする意志は、本来我々にとってもっとも大切なことの一つなのではないのかと思うのです。

援助を受ける患者は、服従して、頑張ることに価値を置くのではなく、自分志向的であっても良いと思うのです。

だからと言って、他人に頼り、自分ひとりで何もしようとしないのは責任や義務の放棄でもあります。

だが、もっと重症なケースには、余りにも苦しみが大きかった上に、人から援助を受けようとしない人が居ることも事実です。

そういった人達がたとえどんな人であろうとしても、社会の局外者だと思い、自分とは違った人種に見ることは危険なことであり、それはナチスと変わりないのです。

私のスピリチュアリティでは、この世に不必要な人など、唯の一人も居ないというのが、私の見解です。

人間は其処に居るだけで、何もしなくても、えらいこと、凄いことをしなくても、認められているのです。
神さまからも、自分自身の霊的な魂に置いても、守ってくれる守護霊さまが居ます。
posted by かなりあ at 12:09| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月25日

謙虚であらねば 祈り

人は死ぬまで何があるかわかりません。今は順調でも、この先、それが続くことは決してないのではないかと私は思うのです。
信仰の世界に置いてもそれはあると思います。
祈り方、これは方法がありません。
私は日々、自分の至らなさ、自分の醜さ、鎧、他人や外の世界を投影して気付く毎日の中に、あります。
そんなとき、計り知れぬ力の前に、無力であることを悟り、我に囚われず、何かに囚われず、逆らわず、ふと自分の心の奥底の叫びに身を寄せ、自然の中に身を置くとき、其処には別の景色があります。

人間の祖先を辿れば、皆、大地の懐に抱かれていました。その冷たさ、じんわりと込み上げてくる火の心地よさ、自然から離れた我々の心の奥底に眠っている、人が決めたあれでもなく、これでもない、ただそこに障らずにあるモノの姿に触れるとき、本当の愛、勇気、知恵という魂の存在に身を委ねることが出来るのです。

それは、時間や空間や所有物に縛られることなく、いつどんなときにでも、人は実践できます。

私はまだこの感覚を実践できていないごく普通の凡人と罵られても一向に構わないのですが、何か、物事を実践するときに、時間や空間や所有物に左右されなくても、力を発揮する力が人間にはあるのだということを言いたいのです。

何かを無心に励むということもあります。ただ、残念ながら、心に大きな傷、インナーチャイルドや、前世療法などか一生でしか治療できない心の大きな病があります。

生きる気力を失ってしまうこと。魂の危機です。
私は自分でも涙が出る程、本当にエネルギーが湧いてこなかったり、塞ぎこんで感情を奥に押し込んでしまう人の気持ちなどは、本当に辛いモノであり、彼らの心の叫びに傾聴し、魂を共にしていただくことこそ、究極の祈りであり、それがイエス様がしたかったことなのではないかと私は思うのです。

祈り、ときとしてこれほど、計り知れない、奥の深いモノはないのではないか・・・と思うのです。
謙虚を保つこと。己至らなさ、自然の前に無力であり、畏怖し続けることこそ、人類が、嫌、今の自分がするべきことなのではないかと思っております。

人が自然の前に無力であることを人々が知りますように

アーメン 南無妙法蓮華経 
posted by かなりあ at 17:26| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月13日

自然崇拝 他力 慈善 心の故郷

私程の愚かな、醜い、こけおどしの人間が、やはり本当の救いとするのは、心の故郷への回帰なのではないかと思うのです。
あの世の実在については私は知りません。
しかし、我々は忙しない日常の中で、各々が何の為に生きているのかを考え始める、自分自身の理想としていた目的に空しさを覚えることは、あの世のことを考える、生と死を見つめる第一歩だと思い、それは祝福すべきことなのではないかと思うのです。
私たちはつい人々の価値観に左右しがちです。そういったときに、心はあっちへ行ったりこっちへ行ったりしていて、混沌として、浅瀬を泳いでいます。
しかし、貴方が、本当に静寂に意識を集中し、全神経を集中させて、感じ取るようにするとき、自然は自然とあちら側から働きかけてくるのです。
それはワクワクドキドキするような感覚かもしれません。
何か心の奥で、何かが溶けて心の涙と共に溶けてゆく感覚かもしれません。
そのとき、意識は一点だけには囚われているのではなく、全体を見て感じるようになるように意識を働きかけるとき、己の弱さを知った者だけが、得られる本当の強さを感じ取ることができます。
この本当の強さとは、愛の力です。私は超能力者でもカルト信者でも何でもないですが、愛の力には強さと弱さを兼ね備えた魂の秩序があります。
ただ、これ自体は感じようとしても、いつも同じだけの感動を与えてくれるとは限りません。
感動が弱まっているとき、貴方の感受性は一時的に鈍くなっている状態だと思います。
改めて、自分の生きる意味、既成の誰かの価値観をとっぱらって、本当の貴方自身を孤独の闇の中で真実を見出そうとする勇気を持つことによって、誰かが賞賛した存在ではなく、誰かがよいと言った存在ではなく、貴方自身の中で本物を見出すことが出来ます。
真の芸術家はそうでなければなりません。
己との闘いです。それは苦しみという代価を背負うことでしょう。
キリスト教の狭き門とはこのことを指しています。
心の故郷への回帰は楽な道ではありません。
この自然界が痛んで悲鳴を上げているように、心の中の自然もこの現実の自然界と密接にからんでいて、我々に鬱を与えているのではないでしょうか。
しかし、楽な道ではない険しい道な筈なのに、違う意味では本当に近道で楽なのです。
しかし、これは私にも言えるのですが、狭き門の道、心の故郷の道を一生歩み続けて死ねるとは限らないのです。
それ程、私も含め人間は頑迷な生き物なのです。
私は人間は生きる上で懸命さは必要だと思います。
私は懸命だったから、この先は楽に生きたいというのは、実は人生に置いてありえないことなのかもしれません。
この世には、人間の理知や常識の認知を超えた計り知れない出来事なり、幸運や不運があります。
その流れに逆らうのではなく、そのながれを受け止めて行こうというのが、五木寛之氏の言っている、他力の計らいに身を任せることなのです。
そして、人間は自然界、アミニズムから本来無力であることを悟るべきでしょう。
しかし、その中でも懸命さを忘れないようにすることが大切なことなのだと、私自身、つくづく反省させられます。
我々が愛の存在に気づくのは他力のはからいです。
決して、愛はつかんだりするモノではなく、存在する賜物なのです。
学歴、偏差値重視の世の中でそのことが置き忘れられる程、恐ろしいモノはありません。
国粋主義こそ、もっとも、愚かなことだと私自身は思うのです。
国家は暴力を正当化する組織です。
しかし、この人間の細胞は、国家という国境という鎖でつながれたモノではなく、全世界の天命の命を持った計り知れない祖先である自然の賜物なのです。
現代は物質中心文明でもっともそのことを忘れていると思えて仕方がありません。
posted by かなりあ at 22:11| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月04日

F 愚か者の私

ポジティブ生きることばかりが人生ではない。ときに後ろを振り向きながら、落ち込んだりする脆い姿こそ、もっとも人間らしく人生そのものなのだと自分に言い聞かせています。
私は恥の多い生業深き人間ですが、それでも健気に生きさせて頂いていることも事実で、結局私は苦しみこそ人生だと言いつつも、本当の地獄の苦しみを知らないのではないかと思うのです。
まだまだ、何にしろ、甘い人間なのです。
生きることはそれだけで悲しみだと誰かがおっしゃっていましたが、生きることは生業を積み重ねることだと、この不条理な人生こそ、宿命であると氏はおっしゃっております。
私の罪はあまりにも大きく、その罪の深さに、立ち竦んでしまい、思わず顔を覆ってしまう癖が出てきました。
それにしても、明治、大正、昭和の日本の音楽は美しいモノです。
何度も同じことをいうようですが、今の世は心の秋の時代、心の冬の時代に移り変わっているのではないかと思うのです。
心の鬱々とする気持ち、やり場のないどうしようもない気持ちを、心の底から憐憫し抱いてくれるような、昔の日本の音楽にはそれがあります。
ところが現代の音楽はどうでしょうか。
皆、ポジティブに未来の為の音楽がはやり続けている。
未来を見て、夢を膨らますことも大切ですが、現代は漠然とした未来の不安、を抱えている。
まるで春の死の予感のような気持ちにさせられる心の闇の時代です。

時代迎合の癒しでは癒されない。どうやら深い悲しみが漂っている世の中です。
それは一言で言えばこの世の不条理でしょう。
楽に生きようと思えば運気も上がると言います。夢に向かって心を開き、信じる力が世の中を変えると言います。
しかし、普段、おおくの善良な人を覆っているのは、無気力、倦怠感、けだるさ、鬱々とした気持ちだということも事実です。
その中でカルト教団は弱者の目をくらましだまします。
他人を蹴落としても自分だけ這い上がり、地位や名声を得ようとする強き人であれば、何も悩む必要はありません。
ですが、それが果たして真実の人、不滅の人間の姿なのかと思うと深い疑問が残ります。
私はキリスト教の新約聖書を深く愛しています。あの新約聖書に書かれているのは、この世の不条理に対して苦しむ人に対して、投げかけているある種のもっとも深いメッセージだと思えて仕方がありません。
不滅の人間について、イエスの教えに、「先の者が後になり、後の者が先になる」という教えがあります。
また、「狭き門に入れ、広き門は滅びに通じるが狭き門は入ることが難しいが真理に通じる門である」と。
先の者とは欲がなく善良の心の清い先に死んだ人間のことを指すのではないかと私はずっと思っていました。
後の者とはしぶとく強欲に生き抜いた愚かな人間なのではないかと私には思えます。
真理の道とは一体何なのでしょうか。
それはお寺に篭り修行をつんだえらい坊さんのことを言うのでしょうか。
それとも、果たして、私の世俗の生活にもつながることであるのではないか・・・
そうとも思えます。
心の病とは、内なる自然、内なる心の故郷に生きる人間のことではないかと思うのです。
程度の差こそあれ、心の病も、この地球上の真実(真理)のひとつなのではないかと思います。
今、私達を覆っているのは心の戦場だと思うのです。
もっとも愚かなと呼べる人間が、より善く生きるにはどうすればよいのか、安易に執着を捨て克己できたら、簡単なことです。
ですが、煩悩は我々を自由にはさしてくれません。
私にはイエスも仏陀も、「真実に生きよ」と言っているような気がしてなりません。
そして、その真実の道とは見えない苦しみにある地獄なのだと思うのです。
しかし、今日を照らす明かりとしての無明の光を自分の中にも他人の中にも見出すことが、人間にはできます。
それはすなわち心に生きること、愛に生きる道だと思うのです。
苦しみの果てに感謝があることを、私は身を持って知りました。
しかし、おおくの人にとってそれが容易なことではないですが、そんな光をどうすれば万人に持てられるのか、私は苦しみながらも思い苦しくなる毎日です。
私なぞ、本当の苦しみを知った人間には入らないと思っています。しかし、苦しんだ人は報われるべきだと思うのです。
それがあの世であってもそうです。
私はそれを願っています。
南無阿弥陀仏 アーメン
posted by かなりあ at 03:29| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月25日

本質

最大の不幸は、誰にも相手にされない、信頼されない無関心にあることだと、とある偉人は言う。
私のある師はあることを例えにそれを否定した。
ある社会から逸脱してしまい、完全に孤立してしまった市民性を持たない人間が、たどり着いた先は誰とも意志疎通のできない、完全に孤立してしまった、どんな人とも話しができない人間だそうだ。
もはや悲しみや怒りや憎しみはとおり越してしまった程の不信頼や無関心や苦しみが彼を襲い彼の感覚は麻痺してしまったと師は言う。
その中でその人は幸福を見つけて自らの世界で生きているらしい。
それ故、この偉人の言葉を否定したのである。
師の考えは愛を乞うことは甘えであり、今の世の中誰しも愛されたい故に、甘えの通じる社会になってしまったことが最大の不幸だと・・・。
さて、私はこの説に果敢に否定論を並べたいと思う。
まず、悟りとはどのような感覚であるだろうか。
AはAに非ずということが、禅の教えである。
これはどのような状況のこと、感覚のことをさすのであろうか。
自身の思っている既成の壁をとっぱらった上で改めて現実を身体で持って経験することである。
たとえばある仕事の以来が受けて勤める前と後では違うように、これは心と身体を通しての想像力のことを指しているのではないかと私は思う。
自分が作りだす人に対する像、あるいは既成の社会に抱いている像をとっぱらうことが、必要なのではないだろうか。
無職」、「精神を煩っている」、「何をしでかすかわからない」これは本来自己の作り出した他者の偽者の像であり、その像によって人を見ていることになる。
とある人々は本来、外側の像で人を見ている。自身がそれに気づかず行っていることを知らない場合もある。
他者を本当に心から理解する為には、その人自身になって、まるでアカシックレコードをその人の人生すべて、その人が思ったこと感じたことを、その人の身になって感じなければ、本来理解出来ないものなのではないだろうか。
私の言っていることは人間中心主義的であるのではない。まさに、それをせずして感じうるモノが存在するのである。
私達の直面する思いもよらない想定外の出来事にはすべて人生の意味があり、道徳や智慧がある。
先達者はそれを自然の中に見出した。しかし、今の我々の中に自然がないのではない。
自然は得も知れぬ想定外の苦しみ、暗闇、静寂、寂しさを含んでおり、それ自体が存在するのにも関わらず、美しき花々や緑や岩肌があるのである。
人がそれを見ずして生きることは、本質を知らずして生きることである。
自然は、外側にあるのではない。まさに自己の内側にあふれ出るモノこそ真の自然である。
そして、自然によって我々人間が成り立っていて、人為的に世の中の原理が成り立っているのではない。
しかし、既成の社会は自然の発露を封印し抑圧し、宗教や禅の教えを自らの都合のよい道具にして、生活しているのであって、本来真理とは、宗教とは、それだけのモノにあるのではない。
真理とは宗教とは、失敗や挫折や絶望に置いて、それらを照らす灯りであり、誰かに押し付けられて、また日常の焦りや不安から、それやに走るモノはゆがんだ宗教を生み出す元凶になるのではないだろうか。
利権や、金がらみでない、社会の局外に照らす灯りとしての、心から湧き上がる神がかりな純粋無垢な強い思いが、ある偉人にはあった。
まさしく本物の信仰とは、抑圧された組織の中で生まれるのではなく、組織に孤立している局外に立つモノ、あるいは集団の中の孤立を抱く者の純真無垢な貧しさの美徳であり、美しき悲しみであり、儚さなのではないだろうか。
人は苦労を知った分、慈悲の心が分かるのであり、またそれだけ心は繊細になるモノである。
しかし、決して現代の生活に適応できる者が優れた者で、そうでない者は劣っているのではない。
そうでない者の中には自己の心の中の自然が絶えず彼に働きかけているのであり、それは既成の社会を生きにくくするのである。
人間には知性と愛と両方必要である。そして知性と愛と勇気こそ、魂のあり方であると、ソクラテスは問いている。
そしてそれこそ、真実であり、それを知らずして、禅も仏教もないわけである。
執着を断ち切ることについて私は、それについて深くあらねばならないと思う。
執着のない心のあり方とは、深く学ぶべきであり、そして、障らずにあるモノももっとも深いところにあるのである。
人はその深さを知らずして、真の救済は出来ないのであり、深さとは学ぶ謙虚な下につく姿勢からでなければ決して生まれてこないのである。
真理を言葉を理解したとしてそれが何になろう。実際師は言葉で真理を理解しているところがあり、其処から生まれるモノは小さきモノである。
深さを理解しようとしたとき、感じるのであって、勝とうとは、地位や名声や誉や金は、もっとも小さきモノとなるのである。
そして、小さきことに囚われている心は、実際、本質からかけ離れているのであり、その壁はとっぱらうのに時間がかかるのである。



人間の最大の不幸は無信頼にあることは事実である。無信頼をした世間あるいは社会は、もっと不幸であることを言いたい。



この人に天国のもっとも良い生活が用意されていることを、切に願っています。
南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経、アーメン
posted by かなりあ at 00:24| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。